32号表紙

No.32(昭和49年11月)

特集:

「丹生文化」の里 山田

「丹生文化」の里 山田(北区)

天保7年(1830)に出された摂津国大絵図の部分

 

山田文楽

淡路の人形浄瑠璃よりも規模小さく、明治の初期に起こったと伝えられる。大正中期が最盛で、農閑期に10数人の座員が神社の境内や仮設小屋で上演していたが、現在ではあやつり手も4〜5人しか残っておらず公演もとだえている。(写真右は原野の櫛田菅治さん宅に保存されている人形のかしら)

ゆたかな文化財と伝説

丹生神社

老樹のよく繁った丹生山の山上にある。もとは欽明天皇3年(542)の創建と伝える古い明要寺のあったところで、平清盛が福原にいたとき、京都の比叡山になぞらえてここへ日吉山王権現をまつり、月参りをしたと伝えられる。天正7年(1579)三木城の別所氏に味方をしたため、羽柴秀吉に攻められ堂塔は焼かれた。そのご秀吉の好意で復興したものの明治初年に廃寺となり、丹生神社と改称した。

山すそに広がる「丹生山田」

 北区山田町にある丹生(たんじょう)、帝釈(たいしやく)、稚子ヶ墓(ちごがぼか)山は、五○○メートル〜六〇〇メートルそこそこのさして高い山ではないが、傷ひとつない山容が非常に美しいのと、山に電柱が一本も立っていないことにまず都会っ子のハイカーは喜ぶ。丹生山は仏教伝来(五三八年)以前からご神体として信仰され、平安時代以後は神仏混合の山岳信仰の場所として帝釈山とともに栄えたという。稚子ヶ墓山は天正七年(一五七九)、三木城が羽柴秀吉軍に包囲された時、山田の人々が食糧などを間道から送ったのに腹を立てた秀吉が子どもまで一人残らず殺してしまったので、子どもたちのなきがらをこの山に葬ったところから稚子ヶ墓山と名づけられたそうである。それぞれの頂上からは六甲連山や明石海峡が一望できてすばらしい。
 これらの山すそにひろがる山田の里は、昔から他の地域にある山田と区別するため「丹生(にぶ)の山田」とよばれていた。神戸の中心地から北へ約八キロしか離れていないのにいまだに山村の風趣ゆたかな町で、町の中央をゆったりと山田川が流れて付近の農村地帯をうるおし、ここでとれる米は"山田米"として有名だ。
 川に沿って東西に走る街道は、西国街道の裏街道で古くから交通の要路だった。この地になぜ古跡や重要な文化財が集まって残っているかについては定説はないが、山をあおぎながらあちこちを歩き、文化財などに接して当時の土地のありさまをしのんでいると、幻想的なおもむきをいっそうかきたててくれる。
 たとえば福地の無動寺には、藤原時代の大日、釈迦、室町時代の阿弥陀の三如来坐像や不動明王、十一面観音など五体の重要文化財があり、また同寺の鎮守若王子神社の本殿と、八幡神社の三重塔はともに室町時代初期の建造で、同じく重要文化財である。衝原(つくはら)には箱木千年家とよばれる古い民家がある。上谷上にも坂田千年家があったが、惜しくも昭和三十七年に焼失した。

さかんだった農村歌舞伎

 下谷上と上谷上には国・県から重要民俗資料として指定されている農村歌舞伎舞台がある。上谷上の舞台は、修復を記念して十月二十六日に播州歌舞伎が公演されたばかりで、これらから江戸時代のこの地方における農民の歌舞伎に対する並々ならぬ情熱を知ることができる。このほか南北朝時代から室町時代にかけての石造物も多く、丹生山の頂上にあった明要寺(明治初年に廃寺、今の丹生神社)の参道に古い町石があるほか、室篋(ほうきょう)印塔、五輪塔、宝塔などが町に散在している。
 この地には伝説的なものも意外と多い。福地から無動寺に行く道のそばの田んぼに"新兵衛石"がある。室町時代に村上新兵衛という少年が大飢饉(ききん)の惨状を直訴した徳をしのんだ石碑だが、ふつうなら討首になるところを、年もいかないのになかなか勇気があると逆に代官からほうびをもらったという明るい伝説だ。

トラを殺した"山田の犬"

"山田の犬"の話もおもしろい。これは秀吉が朝鮮半島でのいくさから帰ってきた時にあちらのトラを連れてかえった。このトラのエサにするために各地から犬を調達したが、その時に山田の犬を連れて行ったところ、この犬が非常にかしこく勇敢で、とうとう最後はトラにくいついて殺してしまい、自分も相討ちして死んでしまう。そして飼主の猟師夫妻はほうびにどっさりお金をもらうという伝説である。
 また原野には「栗花落(つゆ)の井」がある。この地の矢田部郡司山田左衛門尉真勝(さねかつ)は四十七代淳仁天皇につかえていたが、天平宝宇八年(七六四)に左大臣藤原豊成の娘白滝姫を見そめて一度は失恋したが天皇は真勝をあわれに思われ、みずからあっせんして二人を夫婦にされた。真勝はとても喜んで姫を山田へ連れてかえったが、結婚三年で子ども一人を残して死んだため、邸内に弁財天の社を建てて姫をまつった。この社の前に池があり毎年五月、梅雨の栗の花の落ちるころには清水が湧き出て絶えることがなかったことから、池を「栗花落の井」と名づけたという。

保存によせる地元の意欲

 このような伝説にこと欠かないあたりも、いかにも歴史の古い山田の里らしい。今ではこの土地の文化を総称して「丹生文化」といわれるようになったが、この言葉をはじめてつかったのは郷土史家の故川辺賢武氏で、それも昭和三十年代というからまだ新しい。
 丹生文化について名生昭雄氏(神戸市民俗芸能調査団団長)は「川があって日当りもいい。江戸時代はほとんどの地が幕府の直轄領だったので年貢も少なくてすんだ。そんなことで農民が比較的ゆたかだったため、信仰心が厚く、保存意欲があったということでしょう。また表街道でなく裏街道にあたっていたので合戦が少なく、古いものを残すのに幸いした。ただ、古いものとしてはたまたま私が下谷上で見つけた約一万年前の石の槍があるが、それから平安時代後期まで空白期間があってその間の歴史的資料になるものは発見されていない。私白身は、丹生文化とはファンタジックな山田の里―ということではないかと思っている」と話している。

山あいに広がる山田の盆地

  • むかしながらのおもかげをとどめる火の見やぐら=福地
  • 山田の里をゆるやかに流れる山田川。正面は稚子ヶ墓山
  • 旧道の分かれ道にある石の道しるべ。裏には「すぐありま」とあり、一本道であることを示している=上谷上
  • 道案内のように、丹生山のふもとに立っているお地蔵さん
  • 澄みきった秋空にくっきりと稜線をみせる丹生(左)、帝釈山=東下(ひがししも)から
  • 小部峠の宝篋(ほうきょう)印塔。原野の宝篋印塔と小高い山道で結ばれている
  • 八幡神社

    旧山田村13か村の氏神で、鳥羽天皇の保安4年(1123)に山田荘を領有していた源為義が、霊夢によって京都六条の左女牛(さめうし)八幡の分霊をうつし合祀して、六条八幡と称したと伝えている。境内の老杉に囲まれたなかに三重塔(重要文化財)があり、文正元年(1466)3月の建立であることが棟札によってわかる。全体の形がよくととのい、屋根のそりも流麗で、細部の手法がすぐれており室町時代中期の特長をよく示している。
    〈コース〉神戸電鉄箕谷駅下車、箕谷−衝原行市バスで山田小学校前まで行き、そこから徒歩で北西へ400メートル

  • 上谷上農村歌舞伎舞台

    修復されたのを記念し、十月二十六日に播州歌舞伎が公演された。この舞台は上谷上(かみたにがみ)の氏神である天満神社の境内にあり、文久三年(一八六三)の建立。舞台の持色は、舞台天井にあげてある「床几(しょうぎ)回し」で、四つの床几を田の字に合わせ、その上に背景を表裏に飾ってそれを川転させ回り舞台としている。これは舞台を円形に切り込む回り舞台の前身といわれる。また割拝殿形式にななっていて、舞台の中を通る参道部は芝居をするときには板を渡す。県指定重要民俗資料
    〈コース〉 神戸電鉄谷上駅下車、バスで上谷上まで行き、徒歩で東へ三五〇メートルのところを左折し踏切横断後、西へ

  • 無動寺

    高野山真言宗で山号は若王山。寺伝によると、聖徳太子が物部守屋を討ったときにその戦勝訴願として建立したとあるが、実際の開基はよくわかっていない。もと浄慶院福寺といっていたが明治のはじめに一時廃寺となり、そのごすぐに復興して若王山地蔵院無動寺と改称した。本堂に木造・釈迦如来坐像など重要文化財の仏像が五体も安置されている。また境内の本堂西の高台に若王子神社があり、この神社の本殿も重要化財。
    〈コース〉 神戸電鉄箕谷駅下車、箕谷−衝原行市バスで福地まで行きそこから徒歩で北へ七〇〇メートル

  • 箱木千年家

    山田には千年家と呼ばれる古い民家が二軒あったが、上谷上の坂田千年家は昭和三十七年二月十九日の出火で惜しくも焼失してしまった。箱木勇氏が居住している衝原の箱木千年家(重要文化財)は、坂田とともに大同元年(八〇六)の建築といわれているが、間取りだけでなく家のすみずみに古めかしさがただよい、とくに甲胄・武器や日常生活に使われていた盆(鎌倉時代)など、中世の土豪の姿を知る上で数々の貴重な資料を残している。
    〈コース〉神戸電鉄箕谷駅下車、箕谷−衝原行市バスで衝原まで行き、そこから徒歩で北ヘ二○〇メートル

    「長いことここに住んでいると、かえってわかりにくいもんです。そりゃあ都会に近いから、近ごろは里の人もだんだん都会の風になじんできましたが、田んぼの風景や、暖かい人情というもんは、なかなか変わらんもんですよ。それに、春のツツジ、ヤマザクラ、夕ンポポ、秋の紅葉が、これはなかなかみごとなもんで、古めかしいこの里にハッとするような明るさを与えてくれる。冬は少し寒いけど、夏は涼しいし、わたしらにとって山田の里は住みよいところですよ」
    "箱木千年家"の箱木勇さん
  • 芦屋市との境界にある東オタフク山
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