000号表紙

No.28(昭和49年7月)

特集:

コウベゆかりの外国人

神戸ゆかりの外国人 明治5年、英人技師J・W・ハートが作成した神戸外人居留地の実測図
開港と同時に神戸に住みついた多くの外国人は、みなとと共に生き、こよなく神戸を愛した。そして貿易をひらき、エキゾチックな異人館を建て、学校を創立して、神戸の発展に力を貸した。神戸のもつ明るさと進取性、あるいは、おしやれでスマートな神戸っ子のセンスも、古くから彼らととけあって暮らすうちに、自然に身についたものかも知れない。そこで、神戸ゆかりの外国人九人をここで紹介してみた―。

●紹介する九人
六甲山の開祖A・H・グルー厶
外人住宅地を開くA・W・ジェー厶ズ
数多くの異人館を建築A・N・ハンセル
初代の神戸港長J・マーシャル
神戸女学院を創立E・タルカッ卜 J・ダッドレー
関西学院を創立W・R・ランバス
造船所の生みの親E・H・ハンター
日本人妻を愛した文豪W・J・S・モラエス

写真・資料協力(順不同・敬称略)
荒尾親成
落合重信
平野恒次郎
西村雅司(西村写真研究所)
H・S・ウィリア厶ス
A・B・デ・グ−ト

関西学院大学
神戸女学院
日立造船kk
「夜明けの人びと」(朝日新聞神戸支局編)
「神戸史話」(落介重信・有井基著)
「私学振興」 V17No1
日立造船75年史
神戸開港百年史
「神戸の異人館」(坂本勝比古著)
神戸市史

六甲山に魅せられて
A・H・グルーム

写真

通称"グルーム稲荷"で知られる六甲山上の白鬚(ひげ)稲荷

写真

現在の「六甲山の碑」

 明治28年ごろの六甲山は、道らしい道もなく、猟師がシカやイノシシを求めて分けいった程度で、ほと人どの外人は布引山を散歩道に選んでいた。ある日、猟で六甲山に登った英人A・H・グル−厶は頂上から見おろす神戸のまちや大阪湾、淡路島の展望にひと目で魅せられた。
 この年、グルー厶は親友ソニクラフトと計画し、山上にます"和洋折衷"の平家2むねを建てた。グルー厶のすすめで間もなく50軒ほどの外人村ができ、避暑地として次第に六甲山に人が集まりはじめた。すると今度はゴルフ場づくりに没頭するようになり、明治34年にまず、4ホ一ル、それから2年後にやっと9ホールのコースができ36年5月、神戸ゴルフ倶楽部の発会式が行なわれた。
 当時は外人が土地を所右することを法律で認められていなかったため、明治初年に日本人宮崎直さんと結婚していたグル一厶妻の名儀で土地を人手するなど苦労している。
 グルー厶は明治元年来日、長崎のグラバー商会から神戸に派遣された。はじめ茶の輸出に手を染めていたが、製茶輸出が盛んになったため独立、一時は横浜へ転居したのち同22年再び神戸に戻り、外人居留地に茶蔵と商館をかまえた。
 ところで、ゴルフ場が18ホールになった明治末期からにわかに六甲山はにぎやかになった。明治43年には別荘数も60戸余りになり、英、仏、独、米、べルギー人のほか、日本人も10戸余りを建てた。明治45年7月、グルー厶の功績をたたえて六甲山頂に「六甲山開祖之碑」が付近の人たちの手で建てられた。この碑は、グルー厶が敵国人であるという理由で戦争中にこわされ、戦後復旧して「六甲山の碑」と書き換えられたが、開祖のことばをはぶいたのは、碑が再び取りこわされるのを恐れたグルー厶の遺族たちが個人の顕彰碑にすることに強く反対したためという。
 それにしても、明治の中期に早くも今日の六甲を予想したグルー厶の先見はさすがである。

塩屋に外人住宅地ひらく
A・W・ジェームス

 塩屋のジェームス山を空から見ると、縁の中に色とりどりの外人住宅が点在し、思わずうっとりする。白い壁、そして赤、青、うす茶色の屋根。その屋根がかがやいてモザイクのようだ。ここを開いたのが英人A・W・ジェ−ムスである。
 ジェームスは明治22年、神戸で生れた。父は船長で、ジェームスが生れる前年に日本にやってきたばかりだが、神戸のまちの明るさと瀬戸内海の美しさに魅せられてここに住みつき、そのご長らく水先案内人をつとめた。ジェ−ムスはめぐまれた環境の中で成長し、日本の外国人学校で教育を受けたのち当時、神戸で知られたA・カメロン商会に入社、のち総支配人になった。
 彼は居留地なきあと、神戸に適当な外人住宅地かないのを残念がり、昭和3年、荒れはてた何のとりえもない塩屋の丘にめをつけ、外人住宅地の建設にとりかかった。当時の神戸市民には大きなおどろきだったが、そんな市民の目をよそに多額の資金をつぎ込み、山をけずり、道路、水道、教会、公園をつくるなど、住宅地としての施設づくりにあけ暮れた。
 しかし、事業なかばにして日華事変から太平洋戦争に突入、彼を見る周囲の目は次第に冷たくなった。昭和16年、彼はうしろ髪を引かれる思いで帰国した。
 彼が戦後ふたたび神戸に姿を見せたのは23年、市内のほとんどか焼土と化した混乱のさ中である。ジェームス山は、また元のように荒れはてていた。彼は住宅の修理や、痛んでいる施設の整備につとめた。
 昭和27年、不幸にも病気で倒れ63歳で世を去った。日本人実業家がジェームス山をそっくり買いとり、外人に賃貸している。

  • 写真坂道の多いジェームスタウン
  • 写真現在の塩屋シェームスタウン。色とりどりの外人住宅が点在する

数多くの異人館を建築
A・N・ハンセル

 幕来から明治のはじめにかけて、幕府や維新政府に招かれた外人建築家は初期の洋風建築を移植し終えたあと、明治10年ごろから次第にその職を解かれ、彼らによって育てられた日本人建築家や技術者と交替していった。
 A・N・ハンセルは明治21年、一民間人建築家として来日した。ロンドン南西の古い都市ウインチェスターで、優れた建築家について5年間みっちり修業をつんでいたハンセルは来日した翌年、早くも同志社理化学館や、在留外人の社交場である神戸クラブの設計にたずさわり、建築界に強力な地歩を築いた。同25年には神戸居留地に移り、日本を去る大正8年までここに設計事務所を開設していた。ハンセルと他の外人建築家の違いは、政府の御用技師になりたがる人が多かった中で、彼は最後まで民間人としての立場を変えなかったことである。彼が主として手がけた外人の商館や住宅、宗教関係の学校は40数むねにのぼる。しかし、大半は戦災その他で失われた。
 その作風は、既成の考え方にとらわれず、自由で幅の広い技法を用いた反面、@基礎石の面取りA壁面の処理B切妻の扱いCレンガのリツチな手法D煙突の形式など、細部については一貫した技法をとっている。
 仕事に対してはあくまで誠実で、施工の管理も厳格であったため、かってハンセルの仕事に関係した古い職人たちから「ハンセルの仕事はもうからない」といわれた。このような厳しい性格の一面、声楽が得意で催しのときにはピアノの伴奏でよく歌った。
 大正8年、第一次世界大戦後の不況により彼が神戸での建築活動に終止符をうって中国に向かったとき、多くの見送りの人々にまじって、建築関係者の一団があった。彼らはハンセルによって洋風の技術を学び、その好意によって成功した人たちである。31歳で来日し、62歳で日本を去るまでの30年間を神戸で過ごし、その町並みの形成に努力した彼にとって、神戸を離れることにことのほか深い感慨を覚えたことだろう。

東遊園地にあった明治30年ごろのクリケット倶楽部(外人クラブ)。ハンセルの代表作といわれる

  • 写真ハンセルが建てたシュエケ氏邸(生田区山本通3)の洗練された二階階段と親柱
  • 写真ハンセルが建てた旧ハッサム邸(相楽園内)の屋根。煙突のつくりに八ンセルの技法がよくあらわれている
  • 写真ハンセルが建てた小林秀雄氏邸(生田区北野町3)

最初の築港計画図をつくる
J・マーシャル

 開港当時の神戸港は、海岸に石垣が築かれていたが、防波堤がなく風波に悩まされつづけた。当時、貿易はまだ外人の手にあったので、港の施設の必要さは日本人より外人の方が痛切に感じていた。明治6年10月、英国人の初代港長J・マーシャルは、港を拡張し、船舶の安全を確保しないと神戸の発展はありえない―と、兵庫県令神田孝平に築港の計画を建白した。
 計画は、湊川尻の北岸と、旧生田川の東堤から両手を差しのべた形に突堤をつくり、港を保護する。港口は575メートル。いまの中突堤のところに灯台を置いて、出入船の案内をする。工事は2年がかりで総経費は約30万円という内容だった。
 神田はこれを大蔵省こ上申したが、財政難だった政府は「各般の工事、順序緩急あり」と見送った。明治6年といえば維新後まもないころで、港に関する認識を当時の政府に期待することは無理であり、却下されたのももっともである。
 しかし。神戸港の将来に夢を託し、欧米の港に肩を並べるような港をつくろうとして計画案を提出したことは、神戸港の将来の発展を見通してのことであって、神戸港のそのごの修築計画はこのマーシャル案に端を発したといってもよい。そして、本格的な築港論議がようやく盛んになり、明治40年に築港の起工式が行なわれた。
 マーシャルはこのほか、毎日午前9時に神戸における気圧・気温・風位・風力・天候などを観測し、表を作成して神戸の気象観測の基礎を築いた。明治20年に死亡した。

  • 写真修法ヶ原外人墓地にあるマーシャルの墓
  • 写真明治6年にマーシャルがつくった築港計画図

神戸女学院を創立
E・タルカット、J・ダッドレー

 神戸女学院の創立は明治8年10月12日で、来年(昭和50年)は100周年にあたる。創立者であるE・タルカットと、協力者J・ダッドレー両女史がアメリカから布教のため神戸に来たのは明治6年春、キリシタン禁制の高札が撤去されて間もないころだった。
 二人は旧三田藩主九鬼隆義らの好意で花隈村に私塾を開き、男女10数人を集めて英語・唱歌などを教えた。これが神戸女学院の母体となり、明治8年に諏訪山のふもと、今の生田区山本通に独立の校舎を新築して「神戸ホー厶」を開いた。そして明治12年「神戸英和女学校」となり、同27年に現在の「神戸女学院」に改称された。初代校長はタルカットである。
 タルカットは日本における女子教育の先駆者であったばかりでなく、明治13年同学院を辞し岡山で伝道に従事したが、この間、わが国孤児院事業の先駆者石井十次に精神的に大きな感化を与えたほか、同24年、同志社看護婦学校の教授および舎監となり、実地看護の指導にあたった。また日清戦争のさ中、広島の陸軍病院に出向き、日支両軍の傷病兵を厚く看護したことも有名で、持に外人の間ではタルカッ卜を日本のナイチンゲールと呼んでいる。
 病気のためいったん帰国した彼女は、明治35年神戸に帰任、神戸女子神学校の教授として関西各地の伝道に奔走し、同44年11月1日、75歳で逝去した。現在は修法ケ原外人墓地に埋葬されている。
 ダッドレーはタルカットほど表面にあらわれなかったが、その背後にあって行き届いた女房役をつとめ、愛想よく人々に接した。明治33年までタルカットと共に神戸女子神学校に在職したが、健康を害して帰国、同39年に病没した。その著「育幼草」(こそだてぐさ)はに日本の近代育児学史上先駆的なものとされている。

関西学院を創立
W・R・ランバス

写真

元関西学院のチャペル。現在は市立王子図書館(円内は関西学院の創立者W・R・ランバス)

 関西学院はW・R・ランバスによって創立された。明治19年、当時32歳の青年宣教師だったランバスはアメリカ南部の教会から、日本伝道の責任者として、やはり宣教師である父とともに派遣された。
 ところで日本着任が決まると、ランバスは伝道の根拠地を神戸に決め、その理由を次のように本部に報告している。
 神戸はまだ宣教活動が活発でない。内海航路のすべての船がとまるところで、瀬戸内海を押えている。条約港で毎週アメリカ、英国の船が着く。しかも日本のどこに比べても、四季を通じて最も健康的な港町である―。
 あまり資料もなかったのに外国人でありながらこれだけの判断をしたのは、長く中国で伝道活動をした父のもとで生れ育ち、若くして広い視野と豊かな経験を積んだからだろう。着任するとすぐランバス父子は自宅を教会代りに開放し、夜はランバスが自室を「読書館」と名づけて英語を教えた。父ランバスが力を注いだ礼拝のつどいが栄光教会(生田区下山手通4丁目)の基礎をつくり、読書館は関西一の英語専門夜学校パルモア学院(生田区北長狭通4丁目)として、今もその精神が生かされている。
 一方、ランバスは明治22年9月、神戸市東部の原田の森(現在の王子動物園のあるところ)にペンキ塗り木造2階建の校舎兼寄宿舎を建て、授業を始めた。関西学院の始まりである。ランバスが初代院長になり、神学部7人、普通学部12人、教授5人でスタートしたが、そのご昭和4年に西宮市上ケ原に校舎を移転、同7年には多年の念願であった大学昇格を果し、現在は1万4千人の学生を有する総合大学に発展している。
 明治23年、ランバスは健康を害し本国へ引揚げた。しかし世界伝道の情熱は消えず大正10年、東洋伝道の帰途30年ぶりになつかしい日本の土を踏んだが、思い出の神戸へ帰る直前、横浜の病院で67歳の生涯を閉じた。告別式はもちろん関西学院で行なわれた。

造船所の生みの親
E・H・ハンター

 E・H・ハンターはアイルランドの生れ。早くから青雲の志を抱いて郷里のロンドンデリーを出帆、まずオーストラリアに渡り、ついで香港・上海を経て慶応元年、横浜に上陸した。横浜で雑貨とマッチの輸人を営んでいた同郷のキルビーを知り、慶応3年、キルビーが神戸で機械・雑貨の輸入を始めると同時に神戸へ来てキルビー商会に勤めた。そのごキルビーは、日本がイギリスによく似ているところから将来造船業が盛んになることを予想し小野浜に造船所をつくったが、その第一船の工事監督にあたったのがハンターで、これがきっかけで彼は大阪鉄工所をつくった。
 大阪鉄工所は明治12年、交友秋月清十郎、大阪財界の有力者門田三郎兵衛、造船技師佐畑信之らの協力で大阪安治川沿岸にっくられた。当時としては珍しい洋式造船所で、すえつけられた機械はすべて外国製だった。明治14年の駐日イギリス領事の報告によると、同年末までに大阪鉄工所では33隻の蒸汽船を修繕し、うち3隻には同所製の新しい汽罐(カン)が装備されたとあり、すべりだしの好調さがうかがえる。そのごも経営的にいろいろ曲折はあったが、時代とともに発展、昭和18年日立造船KKになった。
 貿易と造船業のほか、ハンターは精米・製紙・精練・機織・海連業など種々の事業を経営した。日本米を精白して輸出し、これが口ンドン穀物市場の標準米になったことは有名である。当時のシャムからチーク材を輸入したのもハンターが元祖で、またアメリカから米松材一万石を輸入して世人を驚かせたこともある。ハンターは大正6年、神戸で死んだ。
 ハンター夫人愛子は大阪の薬種問屋平野家の娘だが、よく夫をたすけ、日本済生会、神戸保育院など公共事業に力を尽した賢婦人。また嗣子・範多竜太郎も神戸財界に知られた。生田区北野町にあったハンター邸は、数少ない異人館として、いまは王子公園に移築、重要文化財として保存されている。

  • 写真生田区北野町にあったハンター邸。昭和38年、王子公園に解体移築された
  • 写真神戸ゆかりの外国人が眠る再度山修法ヶ原の外人墓地

日本人妻を愛した文豪
W・J・S・モラエス

 W・J・S・モラエスは明治22年、海軍少佐として日本を訪れ、同31年に神戸駐在のポルトガル副領事に任命され、のち総領事になった。当時、在留外人の散歩道になっていた布引の茶店に三人の美しい姉妹がいて、その一人に心をひかれたモラエスは毎朝布引の山に通ったが、指に婚約指輪をはめているのを見て身を引いた、と「日本支那風物誌」の中でモラエス自身が書いている。
 やがて、大阪で芸者をしていたおヨネさんに激しい恋をし、遂に結婚した。モラエスは46歳、おヨネさんは25歳。彼の人生にとって最もバラ色だったのはこのころで、有名な「日本通信」をはじめ20冊にのぼる著書の大半は、やさしいおヨネさんにかしずかれていたこのころに書かれ、モラエスの名はいつしかポルトガル文壇の第一人者になっていた。
 しかし幸福は長く続かず、生まれつき心臓の悪かったおヨネさんは明治45年6月に床につき、2ヵ月後、モラエスに抱かれながら死んだ。おヨネさんの死を追うようにモラエスは徳島での隠とん生活に入り、昭和4年、75歳の生涯を徳島で閉じた。
 神戸ポルトガル領事館名誉領事A・B・デ・クートさんは、モラエスの思い出を次のように語っている。
 「モラエス翁が住んでいた神戸の加納町の家には、私は度々父に連れられて行きました。翁と父とが特別に親交があったからで、現在の中央市民病院の南約30メートルの道の西側に、二階建の日本家屋がありました。この家に翁はおヨネさんの死後、おヨネさんの郷里である徳島に移る直前まで住んでいたのです。
 徳島に去ってからのモラエス翁はあまり人に会うことを好まれませんでしたが、私は父と一緒に度々訪れました。当時、徳島での一人暮しの心細さと万一の心配のためか、翁は家の天井に、ちようど七夕につける短冊のような紙片を何枚もぶらさげ、それにたどたどしい片仮名で「オヨネノハカニ ワタシノホネオイッショニウメテクダサイ」というようなことを書いていました。翁の心境を端的に表現したものとして、今でも胸を打たれます。
 モラエス翁は、おヨネさんを通じて日本をますます愛し、またおヨネさんの死によって無常を感じ、いっさいの公職を捨てて徳島で生活に入ったのでしょう」

  • 写真東遊園地にあるモラエスの胸像
  • 写真徳島からデ・クート氏のお父さんに宛てられたモラエスの手紙
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