25号表紙

No.25(昭和49年2月)

特集:

神戸の歴史(上)

神戸の歴史〈縄文時代〜近世初頭〉 国宝 弥生時代の袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)(須磨離宮公園内考古館蔵)
 

紀元前200〜300年から稲作

神戸市民が住み、働き、憩う町―神戸―はどのような歴史をたどってきたのであろうか。今まで歴史に親しみをおぼえなかった人々にも興味をもっていただけるよう、十分ではありませんが、古代から近世にいたるまでの神戸の通史として、上・下にわけて特集してみました。
文・神戸市史資料室(神戸市立中央図書館内) 落合重信

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弥生時代の稲作文化のあとがうかがえる木葉状文の土器

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弥生後期の堅穴住居址

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弥生中期の壺の出土状態

縄文時代の神戸地方

 神戸地方における縄文時代人のあり方を知る資料として、縄文遺跡のいくつかがあげられます。
 山陽電鉄西舞子駅を北へ六〇〇メートル、舞子小学校の裏手にこじんまりした小山があります。これが近畿縄文式土器の前期の一つの標式となった大歳山遺跡です。南にひらけてよく陽があたり狩猟や漁撈の縄文時代人が住むのにはまことにころあいの場所だったと思われます。ここは弥生時代のものも古噴時代のものもある複合遺跡で、この遺跡から察せられる限りでは、縄文時代人は抗争らしいものもなく、弥生文化の中にしぜんに融けこんでいたかにみえます。土地土地によってさまざまであったでしょう。

弥生時代の神戸地方

 東灘区住吉町および垂水区伊川谷町上脇などから籾のあとのある弥生式土器が出土しています。日本に稲作がはじまったのは紀元前ニ○○〜三○○年にはじまる弥生時代からだから、これによって、神戸地方でも同じころに稲作にすでに入っていたことがわかります。
 この人々が最初に住みついたのは、恐らく明石平野であり、いまの垂水区吉田、片山、養田など明石川流域でした。吉田遺跡からは弥生前期、中期、後期を代表する土器が、昭和四十二〜三年にかけて行なわれた土地区画整理事業によって発掘されています。なかでも近畿地方で最初に稲作文化が定着した土地としての歴史的価値を裏づける弥生前期に属する木葉文をもつ壷の破片も見つかっています。
 九州から近畿にたどりついた弥生文化は近畿地方に根をはり、逆に周囲へ影響をおよぼしていきます。中期弥生式土器に見られる櫛目文の模様が周辺に波及していることから、そのことがわかります。そのような中でなぞをひそめる銅鐸(どうたく)が生まれ、九州を中心とする銅剣・銅鉾(どうほこ)文化圏に対して銅鐸文化圏をかたちづくってゆきます。
 さて、神戸地方の弥生中期・後期の遺跡の特徴は、ほとんどが高地にみられることです。たとえば、東から仁川上流の五ヶ山遺跡、芦屋市の城山遺跡・会下山遺跡、神戸市に入って金鳥山遺跡・荒神山遺跡・伯母野山遺跡・布引丸山遺跡・祇園神社裏山遺跡・大日寺裏山遺跡など、ずっと高地に遺跡がつづいています。
 一方、銅鐸については、市立外国語大学のうしろの桜ケ丘から、一四の銅鐸と七つの銅戈(どうか)とが一度に出して人びとを驚かせました。銅鐸については、ハッキリわからない点もありますが、朝鮮からの影響があるけれど、日本内地でつくられ、それが近畿を中心として銅鐸文化圏をつくっていることはわかっています。また、はじめ楽器の役目を果していたものが、のちには祭祀用の宝器として、村ごとに一個づつあったらしいこともわかっています。
 神戸市内の銅鐸出土地としては、垂水区投上ゲ、灘区桜ヶ丘、東灘区渦ケ森、同区本山町森の五ヵ所があります。

古墳時代の神戸地方

 よく知られている応神天皇陵・仁徳天皇陵は、古墳としては中朗のもので、それより前に前期古墳とよばれるものがあります。
 神戸地方にも、瓢塚古墳(垂水区伊川谷町潤和)・夢野丸山古墳(兵庫区北山町)・頓田山二本松古墳(兵庫区会下山町)・得能山古墳(須磨区明神町)などの前期古墳があり、そのうちでも古い方に属するものといわれています。
 このころの神戸地方の中心は、さきの前期古墳が二つある夢野地方にあったのではないかと考えられます。「日本書紀」・「古事記」などの古い書物にも、夢野という名が出ています。この地方は条里制(じょうりせい)のあとのいちじるしい六甲山系南部にあって、まったくそのあとのない地方としても注意されます。条里制というのは、大化改新によっておこなわれた班田収授(はんでしゅうじゅ)の基盤となった一町角(一一〇m四方)に区切った土地の地割の上にたつ土地制度のことです。
 垂水には海に面して中期古墳の五色塚古墳があります。千壷古墳といわれるほどのたくさんの埴輪(はにわ)を立て、全山を葺石でおおったこの古墳は、兵庫県第一といわれるその規模の大きさからいって、明石地方にいた豪族=国造(くにのみやつこ)の墓でないかといわれています、また、吉田集落の東北方丘陵上にある古墳時代中ごろの前方後円墳である王塚古墳。神出町五百蔵の金棒池の中には、古墳後期に属すると推定される金棒池古墳があります。
 前期・中期から後期古墳へ移っていくことによって、葬法(埋葬の仕方)の変化とともに、その分布の広さと数の多くなることに驚かされます。このことから、その背景に当時の社会の内部に大きな変化のあったことが考えられます。すなわち、中期までの比較的大きな古墳は、強い権力をもった少数の支配者が人びとを統率していたことを示しており、後期に比較的小さな古墳がたくさんつくられるのは、当時の社会が、多くの小集団にわかれていっていることを示していると考えられます。

古代の神戸地方

 古墳はだいたい七世紀半ばの大化改新のさい出された薄葬令(はくそうれい)と仏教による火葬の普及によって、次第に姿を消してゆきます。
 そして、日本の古代がいったいいつからはじまるのかといいますと、だいたい四世紀から五世紀の日本の朝鮮侵略によって、大陸の文化がどっと流入してきた時期を起点として、ふるい支配者を象徴する前・中期古墳がほろび、後期古墳に交替してゆく六世紀ごろあたりとするのが一般のようです。新しくおこった条里制による大開拓は、その規模の大きさのために分割耕作を必要とするようになり、共同体のきずなは次第にゆるみ、その中から独立した古代大家族=郷戸(ごうこ)が生まれてきて、新しい社会の基盤となってゆきます。
 さて、この地方の古代氏族としては、山脊(やましろ)氏、生田に生田首(おびと)、長田に長田村主(すぐり)、さらに凡河内(おおしこうち)氏などがあげられます。「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」という書物によると、摂津にその勢力を張った凡河内氏は、山脊氏とともに天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子孫とされています。また、それによると生田首にならんで布敷(ぬのしき)首がみえ、そのほか、津守(つもり)氏・雀部(ささべ)氏・大倭(おおやまと)氏などの存在がうかがえます。
 神戸はまず夢野あたりからひらけたのであろうとさきにも述べましたが、夢野は当時イメノとよまれ、禁野(いみの)の意味で、皇室の御領としての禁猟区だったのではないかという見方があります。そのそばの頓田山のトンデンが屯田ならば、ミタ(屯田)で、皇室の御料地であったことになり、あるいはあたっているかもしれません。

  • 写真3月に整備が完成する五色塚古墳(垂水区五色山町)
  • 写真土器、石鏃、磨製石斧などがみつかっている明石川流域に残る唯一の縄文時代の遺跡―元住吉山遺跡(垂水区細田)
  • 写真大規模な整備が続けられている大歳山遺跡(須磨区舞子山田)
  • 写真山頂住居跡という珍しい弥生時代の集落遺跡―芦屋会下山復原住居址(芦屋市三条町)
  • 写真一遍上人入没の地、真光寺の五輪の塔
  • 写真数々の貴重な資料が保管されている吉田郷土館(後方左の森は吉田遺跡―垂水区玉津町吉田字城山)
  • 写真39年12月六甲山ろくの灘区桜ヶ丘で発見された国宝の銅鐸(須磨離宮公園内考古館)
  • 写真いつの頃か盗堀をうけ、石室内には何も遺物は残っていないが、石室の石積みは築造畤の状態をよく保っている―道心山一号墳(垂水区押部谷町細田)
  • 写真山陽新幹線工事に伴って発掘調査された新方遺跡全景(垂水区玉津町新方)
  • 写真明石平野の一角に勢力をもつ在地の豪族を葬むったと思われる王塚古墳(垂水区吉田小池)
  • 写真金棒池の中にある前方後円墳の金棒池古墳(垂水区神出町五百蔵)
  • 写真明石川流域に残る古墳の中では最も古いものといえる前方後円墳瓢塚(ひさごづか)古墳(垂水区伊川谷町潤和)
  • 写真摂津に勢力を張った凡河内が祖先の天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祭った五毛天神(灘区国玉通)
  • 写真弥生後期の甕棺の発掘現場
  • 写真養田遺跡での土器出土状態(垂水区押部谷町養田)

中国貿易を企てた平清盛

大化の改新以後の神戸地方

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應保2年(1161)頃の神戸の地形が察知できる条里図

写真万葉集に歌われた敏馬の浦に建てられた敏馬神社(灘区岩屋中町)

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清盛が大修築し対宋貿易の拠点とした大輪田の泊(兵庫区中之島一帯、いまの兵庫港)

 大化の改新による社会の変革が地方の農民に与えた影響は、非常に大きかったといえます。一つは、戸籍がつくられて農民の動向が直接中央の政府ににぎられたことであり、つぎに、よく知られる班田収授の制度がとられたことです。それ以前、地方農民が豪族の支配のもとにあって、どんな状態であったかわからない点も多いけれど、少くとも豪族の民(私民)から国家の民(公民)に移ったわけです
 その当時班田を受けたこの地方の住民がどのくらいいて、集落はどこにあったかといっことは確かなことはわかりませんが、その耕した農地は条里制のあと(条里制遺構)として今日にのこされています。八部(やたべ)郡(雄伴(おとも)郡の改称)では、旧湊川から妙法寺川流域までと、葺合区の鉄道以南。菟原(うばら)郡は、六甲山系南の細長い平野、有馬郡では、道場平野を中心としてその周囲、明石郡では明石川流域と伊川谷の平野にそれがいちじるしくみられます。
 大化の改新にあたって、京・畿内・国・郡の行政の区画が定められますが、垂水区を合併するまでの神戸市はその畿内のうちの摂津国の西端にあって、菟原・八部郡の範囲でありました。当時このあたりを通る主な街道は山陽道です。大同二年(八〇七)太政官から出された文書に摂津五駅とありますが、「延喜式(えんぎしき)」には摂津国として草野(かやの)・葦屋・須磨の三駅を記録しています。
 さて、湊川の名が「法隆寺資財帳」といりものにすでに出てきます。ミナトは水門とも書き河口のことですが、ミナトには泊りの意味もあって、その河口に泊りをもつ川の意味でミナト川と名づけられたと考えられます。
 この地方の港は、東から西の方へと移動しています。古く書物にあらわれてくるのは武庫水門(むこのみなと)です。難波津(大阪)の対岸にあったから向の水門で、場所は西宮市津門あたりかといわれています。六甲山というのも向山に六甲の字をあてたものです。つぎにあらわれてくるのは敏馬(みるめ)で「万葉集」に多くみえます。そこにうたわれている歌から、天平年間(奈良時代)には敏馬の浦がたいそうにぎわったことが知られます。その地は今も神戸市内にあり、敏馬神社が祭られています。
 しかし、これらの武庫水門、敏馬泊も奈良時代末期になるとその名もなくなり、大輪田泊のみがあらわれてきます。港の西への移動です。

平安時代の神戸地方

 大輪田泊がはっきりと記録にあらわれてくるのは、「日本後記」という書物の「遣使修大輪田」という弘仁三年(八三一)の記事です。使を遣わすというようなことばから、それ以前から管理されていたことを思わせます。
 この当時の大輪田泊の位置については、いろいろな説がありますが、当時の湊川がどう流れていたかはっきりしない点もあり、平清盛が経ヶ島をつくってからは港の形も一変しているので、どこであったと定めるのはむずかしいのです。
 さて、そのころ陸地の村々はどうなっていたでしょうか。大化改新によって五〇戸一里制というものが設けられ、その後霊亀(れいき)元年(七一五)に里は郷と改められ、郷の下に二〜三の里がおかれる郷里制がとられています。やがてその里も廃止され、平安時代は郷制となっています。
 (八部郡)もとの雄伴郡。雄伴郡時代は古湊川以西だったと思われますが、改称の前後には東の敏馬崎のあたりまで郡の境界が移った時期もあるようです。西から長田郷・八部郷・宇治郷・神戸郷・生田郷の五郷からなっています。神戸の名はこの神戸郷が、神戸村となり、その神戸村が、のちの神戸市の中心になったため名づけられたものです。
 (菟原郡)西から布敷・津守・天城・覚美・住吉・佐才・葦原・加美の八郷がありました。芦屋市の区域を除いて、今では全部神戸市内に入っています。
 (有馬郡)古くから有馬温泉の名で有名なところです。郷は、忍壁(おさかべ)上・下、羽束(はつか)、大神(みわ)、幡多(はた)、春木(はるき)の六郷。このうち神戸市内にあるのは、幡多、春木の二郷です。
 (明石郷)葛江(ふじえ)・明石・住吉・神戸・邑美(おおみ)・垂水・神戸の七郷。二つある神戸のうち一つは、海岸沿いの神社の神戸で、一つは奥地の神社らしいですが、はっきり示すことはむずかしいようです。
 では、いったいこの地域にどれだけの人口がいたかというと、さいわい「摂津国大計帳」というものがあって、保安元年(一一二○)で、平安末期のものですが、それが知られます。

  戸数 人口
菟原郡 四三七 一万五六九五
八部郡 五九七 二万二一四五
有馬郡 一七五 四七〇七
明石郡がないので、現在の神戸市の人口とそのまま比較できないものの、意外に人口の多いのに驚かされます。
 大化改新によって、天皇や豪族の私有地は廃止され、すべての土地は国有(公地公民制)となったけれど、寺や神社が土地を私有することは認められていました。これがやがて土地私有としての荘園に発展していくもとになっていくわけで、平安時代から室町時代にかけては、土地制度の根本にこの荘園がありました。
 竹内理三氏の報告によりますと、神戸地方の平安時代の荘園としては、北野社領山路荘、平家領福原荘、法隆寺領州磨荘、藤原頼長家領井倍荘、東大寺領山田庄、石清水社領塩田荘などがあげられています。

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「元禄兵庫津絵図」

平安時代末期の神戸地方

 平清盛が神戸(福原)へ来たのは、太政大臣という地位について間もない仁安二、三年(一一六七、八)のこととされています。福原は、清盛が長年西国の任地にあって、京と往復する間に、輪田泊が交通の要所にあたりしかも港湾の良好なのに目をつけ、ここを拠点に宋(中国)との貿易をやろうと考えていた土地です。
 以仁王(もちひとおお)の令旨をきっかけとした源氏勢の蜂起は、清盛に福原に都を移すこと(福原遷都)を決意させます。突然の発表に京都は大混乱となりますが、治承四年(一一八〇)六月二日これを断行し、一一月一一日には安徳天皇が新たにつくられた皇居にはいられています。
 この奥平野につくられた新造皇居である福原京と、新しく帝都として計画されようとした和田京とはよく混同されますが、二つは別のものです。「平家物語」に新都城計画はほとんど和田京として出てきますから、本来和田京と呼ぶべきです。ただ和田新京は計画だけで実現していません。しかし、同じ一一月二三日にははや旧都へ還都します。
 清盛は、福原に居を移すと間もなく、承安年間(一一七一〜四)に大輪田泊修築のことにあたっています。松王丸にからむ人柱伝説がありますが、これをお経を書いた石にかえたというので経ケ島の名を伝えています。なお、「平家物語」には清盛の遺骨をこの経ヶ島に葬った、とありますが、清盛塚というのは埋葬地ではありません。
 大輪田泊の修築は、ここに宋の船を入れて貿易をおこそうとしたものですが、当時、清盛は宋から輸入した「太平御覧」(一種の百科辞典)一千巻を高倉上皇に奉っています。このような書物の輸入までおこなわれていることは注目されますし、さらにそれよりも、宋銭が盛んに輸入されて国内に流通したことは、経済上重要な意味をもっています。
 さて、平氏は富士川の戦い(一一八〇)で源頼朝の軍に敗れ、さらに砺波(となみ)山の戦い(一一八三)で木曽義仲の軍勢に京都に攻め上って来られたので、寿永二年(一一八三)七月二五日一門をあげて京を落ちねばなりませんでした。
 九州大宰府にあって勢力挽回の機をうかがっていた平家は、軍の本隊を四国の屋島においていましたが、寿永三年(一一八四)正月二六日屋島を発して福原に向い、ここに陣を張っていました。東の生田森を平知盛が、西の一ノ谷方面を平忠度が守って源氏の攻撃に備えていました。結局、二月七日の朝東西から一斉に攻撃をかけた源範頼・土肥実平らと鵯越を下った義経の軍によって、平氏は敗北することとなります。
 このいわゆる一ノ谷の合戦では、神戸市域いたるところに激烈な戦闘がくりひろげられています。そして、広い地域で戦いが行なわれたのに、なぜ一ノ谷の合戦とよばれるのか、さらに義経がこのときどういう進路をたどったかについて、いろいろな議論があります。

  • 写真布袋寺に保存されている平清盛画像(北区有野町二廊漏)
  • 写真松王丸の人柱伝説を生んだ経ヶ島(兵庫区島上町付近)
  • 写真源平の戦ー鵯越遠望
  • 写真清盛の別邸のあった雪の御所跡(兵庫区雪御所町湊山小学校校庭)
  • 写真清盛塚(兵庫区南逆瀬川町2)

湊川合戦に出陣した僧徒

鎌倉時代の神戸地方

 平清盛は神戸に本拠をおいたからその因縁は深いけれど、鎌倉幕府を開いた源頼朝は遠く鎌倉にあってそこからあまり出なかったため、神戸との関係はほとんど出てきません。
 ところで、兵庫という名はこのころからみえはじめてきます。「吾妻鏡」という書物の寿永三年(一一八四)の記事に、平家が没収された荘園として、「兵庫三箇庄」と出てきます。平家が没収された所領ということから考えて、それ以前からの名と考えられます。兵庫の名は、大化改新のさい国郡毎に置かれた兵器庫としての「兵庫」に由来します。この八部郡では郡衙(ぐんが)(郡の役所)のあった室内地方(室内小学校あたり)にあったと思われます。その跡が地名となったのでしょうが、それがどんなふうに荘園の名となり、町の名となっていったのかはよくわかりません。
 平清盛が来て以後、兵庫は一躍脚光を浴びることになります。鎌倉時代の後期になると、寺や神社の経費にあてるために、淀・渡辺・神崎・一州などとならんで、兵庫にも津料(関税のようなもの)の収入を目的とする関所がおかれるようになります。これは国衙領(公領)が衰退した反面、荘園の発達によって年貢輸送船の往来が増大し、また畿内・西国における流通経済の発展によって、港が新しい財源として注目されだしたからです。末期には、それに関連して兵庫関襲撃事件という大きな事件もひき起されでいます。
 瀬戸内海の要衝としての兵庫には大商人もいたし、問丸(といまる)という問屋・旅宿・為替を兼業するものがあったことは、室町時代の資料にしばしば見えますが、問丸がすでに鎌倉時代がら発生していたことは.兵庫関襲撃事件に関係していた問丸掃部允らの存在によって十分想像されます。
 兵庫の南逆瀬町、兵庫運河に近く清盛十三重塔があります。これは清盛の墓とみられていましたが、移転の時の調査によっで墓でないことが確かめられました。有名な宇治川浮島の西大寺僧叡尊建立の十三重塔が同じ弘安九年であり、形式も同じところからこれも叡尊がつくったものでないかという人がいます。
 弘安九年といえばで長田神社境内の石燈篭は弘安九年戊四月二十六日の刻銘のある古いものです。このほか、銘はありませんが真光寺内一遍上人廟所の五輪塔、八多町極楽寺の五重塔、石峯寺の五輪塔地輪部は鎌倉時代のものです。

南北朝時代の神戸地方

 元亮元年(一三二一)後宇多法皇の院政のあと親政を始めた後醍醐天皇は、天皇の権力回復を目ざして鎌倉幕府を倒そうとはかったけれども、北条氏の手によって敗北し、元弘二年(一三三二)隠岐島へ流されます。
 しかし、その間も天皇方の楠木正成は千早城を根拠地にして幕府の大軍と戦い、元弘三年(一三三三)に次々に蜂起した足利尊氏・名和長年・赤松則村らの北条氏打倒の軍は、京都六波羅で幕府軍を破ります。そして五月二〇日に鎌倉をおとし入れた新田義貞によって、幕府は倒されることとなります。
 赤松則村(円心)は、播磨国赤穂郡の峡谷赤松の地で代々地頭として勢力をもっていましたが、「太平記」によると大塔宮(護良親王)にしたがっていたその子赤松律師則祐が、令旨を持って帰り父則村に挙兵をすすめたとあります。円心は赤松苔縄(こけなわ)城から出て三石山に城をかまえ、備前の守護を破って、さらに播磨地方を制覇し、摂津国に進撃して摩耶城をかまえます。この時の大塔宮令旨は垂水区伊川谷の太山寺にのこっており、赤松の挙兵を知った大塔宮は太山寺衆徒に応援を命じたのです。
 さて、建武中興の政治は後醍醐天王の熱意にかかわらず実情にそぐわず、何より天皇方で働いた諸国の武士たちを満足させることができませんでした。当時最大の実力者足利尊氏は、鎌倉が再び北条時行におとし入れられたのをきっかけに、新政府に反対する行動をとります。
 鎌倉をおとし入れ京都に攻め上った尊氏も、西宮、打出の合戦で政府の討伐軍新出義貞・楠木正成の追撃にあって一たん九州大宰府に逃げのび、今度は九州一円の武士を従えて水陸両軍で京都に攻め上がってきます。尊氏討伐のため備前国に進んでいた義貞は退却したすけを求めたので、楠木正成が兵庫に応援に来ることとなります。義貞の軍は加古川を退いたとき二万、正成の軍は五〇〇から七〇〇といわれ、一方尊氏の軍はそれに数倍し、勝敗ははじめから明らかでした。
 この湊川合戦の名称は、湊川が戦の中心の一つであったからですが、兵庫湊川合戦、兵庫島合戦、兵庫浜合戦の名ものこっています。
 この時期の戦闘には、神戸市域で太山寺、明要寺、近江寺、性海寺の衆徒が参加しています。この時代にあっては、神社や寺院も所領を守るためには一般の武士たちと変らなかったことを示しています。

  • 写真陸奥、出羽の米を大阪に回送した"北前干石船"の模型(神戸港湾博物館)
  • 写真元弘3年(1333)2月21日、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王が太山寺の衆徒に対し、鎌倉幕府討滅の軍に加わって忠勤をつくすよう命じた―大塔宮護良親王令旨(垂水区伊川谷町太山寺蔵)
  • 写真摩耶合戦の舞台となった摩耶山天上寺(灘区摩耶山)

室町時代の神戸地方

 京都では光明天皇の即位とともに、建武三年(一三三六)一一月に「建武式目」が制定され、暦応三年(一三三八)八月には足利尊氏は征夷大将軍となります。
 このころの神戸地方は、福原庄、兵庫三箇庄、輪田庄などが入りまじっていて、それらがどのように関係するのかはっきりしません。しかし、この地方一帯は、軍功によって建武四年(一三三七)摂津国の守護に任ぜられた赤松範資が支配することになります。範資は再度山を中心に多々部城を築き、兵庫の町を控えて兵庫関の管理にもあたっていました。
 延慶元年(一三〇八)東大寺が兵庫関を管理するようになりますが、兵庫津が瀬戸内海の要路として、陸あげされた貨物の量は相当なものだったと考えられます。兵庫津にはすでに問丸という問屋に似た商人が発達し、運送・保管・販売や倉庫業・商人宿などを兼業していました。
 室町時代に入ってから、将軍足利義満・義教らが明船を見ようとして兵庫に来ているように、兵庫はこの時代の日明貿易の中心港でした。しかし、その明との貿易も、応仁の乱による兵庫の町の荒廃によって衰え、港は泉州堺に移ってしまいます。兵庫は、また、明との交通以外にも、朝鮮・琉球の船の入港地ともなっていました。
 応仁元年(一四六七)正月、畠山政長と同義就の同族の争いに始った応仁の乱では、京都だけでなく兵庫の町も、とくに文明元年(一四六九)一〇月の東軍側の山名是豊の侵入によって、住民の多くが殺されるとともに荒廃しきってしまうのです。
 兵庫における対外交通は、文明一三年(一四八一)以後途絶えてしまい、堺の方に移ります。それまで兵庫の繁栄をもたらしていた明・朝鮮・琉球の船の入港がまったく途絶えたのだから、応仁の乱の兵庫に与えた影響はきわめて大きかったといえます。

戦国時代の神戸地方

 文明六年(一四七四)細川・山名両氏の講和が成立し、九年(一四七七)に西軍の足利義視が美濃国へ逃げ去ることによって、一一年も続いた応仁の乱も終りました。しかし、戦乱は地方へ移り、延徳三年(一四九一)北条早雲が伊豆を征服したときをもって戦国時代のはじまりとされています。
 当時摂津国は、守護であった細川勝元が死んでその子政元が支配していましたが、兵庫は永正一六年(一五一九)四国から上陸した細川澄元の勢力下となり、その支配をめぐって戦乱が続きました。しかし天文一三年(一五四四)上京した四国阿波細川家の家臣三好長慶が、澄元の子細川晴元の軍を破って摂津に勢力を張ることとなりました。
 滝山城は布引の滝のうしろの城ですが、三好長慶の手からその家臣松永久秀へ、さらにいわゆる三好三人衆へと移っています。織田信長の手に入ってのちは、伊丹城の攻略に功のあった荒木村重が西摂地方に勢力を張っており、花熊城に配置せられた荒木志摩守元清がこの地方を支配していたようであります。
 花熊城は神戸人にもっとも知られた城でありますが、天正二年(一五七四)摂津国を勢力下においた信長が、荒木村重に命じて築城したものといわれているものの、くわしいことはわかっていません。のちに信長の信頼を失った村重が反抗したので、天正八年二月信長は池田信輝・輝政父子に命じて花熊城を攻撃させ、陥落させました。
 戦後、信輝は、はじめ大坂城を築き、のち兵庫城を築きました。その子之助は伊丹城に、輝政は尼崎城にいましたが、兵庫および付近一帯は信輝が支配することとなったのです。花熊城の落城は、神戸の歴史に一段落を画することになり、これより近世に入ります。

近世初頭の神戸地方

 天正八年(一五八〇)花熊城が落城したあと、城をつぶして、池田信輝はその材を使って新しく兵庫城を築きました。しかし、その信輝は大正一二年の長久手の戦いで戦死し、城にいた期間がわずかであったこともあり、記録も少なくくわしいことはわかりません。
 天正一〇年(一五八二)の有名な本能寺の変は天下の形勢を一変させましたが、その翌年の天正一一年七月には早くも豊臣秀吉が兵庫を支配したことが捶井(たるい)家の文書によって知られています。これでみる捶井家は兵庫の在地領主で、土倉(質屋をかねた金融業者)などを営業する初期の豪商であったことがわかります。
 慶長三年(一五九八)秀吉が死に、慶長五年(一六○○)関ヶ原の戦のあと天下の覇権は徳川家康の手に移り、秀吉ののこされた子秀頼は、わずかに摂津河内の国を支配する一大名にすぎなくなってしまいます。これによって、摂津国茨木の城主片桐且元が秀頼の財政をみることになり、同時に兵庫を支配することになります。
 さて太閤検地が画期的な大事業であったことは、中世から近世への幕を開いたものとして高く評価されていますが、これによって神戸地方の行政もはっきりされたといえます。すなわち、大正一九年(一五九一)一一月片桐且元・堀秀政のもとにおこなわれた検地帳によると、兵庫地子(ぢし)五〇〇石一斗、兵庫川西二一三七石余、兵庫川東四六六石余は蔵入(直轄地)となっています。
 当時兵庫の町政にあたるものは、のちのように庄屋・名主といわず、肝煎(きもいり)・年寄の名がみえ、あるいは年老・中老といった名もみえ、そしてその下に五人組・十人組などの組織がありました。

尼崎藩領下の神戸地方

 元和元年(一六一五)に大坂城が落城して、ここに完全に徳川幕府の時代に入ります。これまで一部を除いてほとんど豊臣の直轄地であった神戸地方は、そのまま徳川の直轄地とはならず、元和三年(一六一七)近江国膳所(ぜぜ)より尼崎藩に移された戸田氏鉄の所領となります。戸田氏が岐阜大垣に移されると、寛永一二年(一六三五)にはに青山幸成の所領となり、そのご青山幸利・幸督・幸秀とつづきます。幸秀が飯山に移されると正徳元年(一七一一)そのあとへ松平忠喬がきて忠名・忠告とつづきますが、忠告のとき明和六年(一七六九)に上ヶ地(あげち)令というものが出され、阪神間の重要な地は幕府の直轄領となります。
 松平氏の所領としては、菟原郡では都賀・原田・森などの諸村と高羽・五毛村などの一部、八部郡では生田宮・坂本村の二村のみがのこされ、そして忠興のとき明治維新を迎えます。
 この間諸村の新田開発が盛んに行なわれ、それらには享保年間に兵庫の庄屋井上仙右衛門の開拓した今和田新田、天保年間西宮の油屋伊三郎と東尻池村の末正久左衛門の開拓した吉田新田、同じく享保年間に北風荘右衛門貞和の開拓した粥腹新田、ニッ茶屋村の茶屋高浜伊衛門の開拓した高浜新田、さらに年代・開拓者不明な小野浜新田などがありました。
 ところで、当時兵庫の町の行政は大坂奉行の支配に属していましたが、土地の年貢に関することがらは代々ひきつがれた庄屋・年寄があたり、代官に隷属していました。兵庫町のそとの幕府領の村々はすべて代官が支配していました。そして、村々の行政が庄屋・年寄・五人組頭を中心に行なわれていたことは一般とかわりません。
 兵庫は明との貿易を堺に奪われてからは、信長・秀吉の時代を通じてずっとその繁栄を堺にゆずっていましたが、秀吉が堺の商人を大坂に移したことなどにより堺が衰えたのに引替え、天下の台所大坂の外港として着々と抬頭しはじめます。そして、兵庫に近世としての繁栄をもたらしたのは、次にのべる西廻り船の開拓であります。
 寛永一六年(一六三九)加賀藩主前田利常が開拓したのに少しおくれて、幕府は、寛文一二年(一六七二)陸奥・出羽方面の米を大坂に回送するため、河村瑞賢に命じて西廻航路を開かせます。これによって、それまで加賀藩の手によっておこなわれていた西廻航路もこの航路に合同し、西廻航路が完成します。それ以後の兵庫はその土台の上に繁栄を築き、兵庫への入港船がふえるにつれて、北風家一門の問屋が兵庫の倉庫を支配し、とくに北国との運送に重要な役割を果します。
 元禄時代は五代将軍綱吉の時代であり、神戸地方では青山幸督の時代です。この時代に神戸地方で注意されるのは、徳川光圀が宇治川ベりに建てた楠木正成の碑です。この建碑は元禄三年(一六九〇)にはじまり、大供養のおこなわれたのは、正成死後三六〇年にあたる元禄八年の一一月二五日でした。
 この元禄の状態の一部は、「元禄八部郡郷帳」と「元禄兵庫津絵図」がのこされており、具体的に知ることができます。「郷帳」によって八部郡内の家数・人数がわかってすこぶる貴重です。このころから次第に差別が制度化されるようになってきたことが考えられます。
 「絵図」は捶井家に所蔵されたもので、これによって、兵庫城のあと、町の外郭、町並ことに兵庫の町が東は東出町、西は和田崎町のはしまで発展していた状態を具体的に見ることができます。
 近世における陸上交通は年々盛んとなり、宿駅の利用も多くなっていきます。兵庫津にも早く公的施設として宿駅が設けられたことは、貞享二年(一六八五)の津中(つちゅう)法度に見えます。兵庫の宿駅は神明町に本陣があり、代々井筒屋(衣笠)又兵衛がこの任にあたり、同町と小広町に脇本陣が四軒、別に問屋場というものが東柳原にあって人馬の取扱いをしていました。
 さらに、兵庫には他所にはない兵庫独特の浜本陣というものがあります。これは、諸国の大名と直接結びつく問屋業者で、大名の領国の産物を売買する特権を与えられるとともにいろんな用達を命ぜられました。時代によってその数は変化するのですが、幕末では絵屋・小豆屋など九軒がありました。

  • 写真花隈公園の北、福徳寺前に建つ花隈城天主閣之址の碑(生田区花隈町)
  • 写真太山寺
  • 写真北前千石船に使われた船ダンス、徳利、油つぼとイカリ(右)(神戸港湾博物館)
  • 写真湊川合戦の戦場ー兵庫区会下山公園に建つ楠木正成の碑
  • 写真中央卸売市場の正面入口にある兵庫城址の碑
  • 写真湊川合戦場となった高取山
  • 写真徳川光圀が建てた楠木正成墓碑(生田区多聞通湊川神社)
  • 写真布引の滝入口に建つ滝山城址の碑
  • 写真多数の死傷者が出たと記されている慶長大地震の記録(須磨区須磨寺町福祥寺(須磨寺)蔵)
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弥生文化のあけぼの

垂水区吉田、養田など明石川流域から発掘された二千百年前の弥生土器(左から弥生前記・中期・後期)
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