23号表紙

No.23(昭和48年11月)

特集:

神戸の異人館(上)

神戸の異人館 生田区北野町

開港以来の生い立ちを秘めて

神戸の山手、北野町あたりを歩くと、曲がりくねった路地の奥に、また深い松に囲まれた茂みのなかに、風雪を経て色あせたオイルペンキ塗りの異人館が点在している。 開港以来一世紀あまり、多くの異邦人がこの地を訪れ、生き、そして帰っていった。この地でその生涯を終えた人々も少なくない。彼らにとって、遠く異郷の地での生活は、いろいろな思い出に満ちたものであったろう。古びた異人館は、そのような生い立ちを秘めて静かに建ちつくしている。

小林秀雄邸

 旧M・D・シヤアブ邸で建築は明治36年、設計はA・N・ハンセルと推定されている。
 中廊下をもつ典型的な箱型プランの家。南面したべランダは現在室内にとり入れられているが、玄関ホールや階段などにかなり豊富な飾りがほどこされている。また外観もレンガ化粧積みの煙突や、軒飾りなどの扱いに特色がみられる。木造2階建て、日本瓦茸き、下見板張りオイルペンキ塗り。生田区北野町3丁目。

E・J・シュエケ邸(旧ハンセル邸)

 明治21年(1888)から大正8年(1919)まで約30年間日本に滞在し、明治中期以後の神戸の洋館建築に個性的な作風をもたらして大きな影響を与えた英人建築家A・N・ハンセルが、自邸として明治29年に設計、建築したもの。木造2階建て、日本瓦葺き、下見板張りオイルペンキ塗りで、外観にステックスタイルの技法を好んで用いているのが持徴。
 この家が自邸であるだけに自由で楽しい、いろいろな試みを行なっているのも興味深い。たとえば屋根に鯱(シャチ)をあげ、またベランダの手すり状の柱、力板のイスラム風の扱い、さらに手すり子のなかに日本建築の唐様の扱いなどがある。生田区山本通3丁目。

明るい神戸の風ぼうを形成した"異人館"
坂本勝比古(日本建築学会会員、工学博士)

異人館と洋風建築

"異人館"が近ごろ見直されるようになったせいか、この言葉をよく耳にする。いうまでもなく異人館は、明治のはじめ文明開化のはなやかなころ、当時の人々が"異人さん"の住まいを指し、一種の親しみをもって呼んだ呼名から出たものである。
 開港当時のにぎわいを色あざやかにみせる"錦絵"や"横浜絵"と呼ばれる風俗画のみだしに、海岸通りに建つ洋館を描きながら"異人館"と題目をつけたものが少なくない。
 したがって"異人館"は明治の建築洋風、いわゆる"西洋館"と同じ範ちゅうにはいるものであるが、異人館が、明治の洋風建築のすべてを代弁しているわけではない。このあたりを一般の人はよく混同し、洋館であればなんでも異人館と呼ばれているようであるが、厳密にいうと異人館は、明治の洋風建築の一つの形態をなしているにすぎないのである。

異人館の見どころ

 異人館の見どころといって、特に改めていえるものはない。しかし一般の人に異人館を理解することに役立つことを強いてあげるとすれば、まず、なにはさておいてもそのゆとりのある建築ということだろう。
 名前は忘れたが「異人館には遊びがあり、夢がある」といった人がいる。たしかに現代の機能重視の合理主義的な建築と比較すると異人館の持ち味はおのずから理解できるだろう。今日の建築基準法では許されない外壁の下見板張りオイルペイント塗りの仕上げは、異人館の外観上の大きな特徴の一つである。神戸の異人館は、この下見板張りにさらにご丁寧に繰り型をつけているので、下見板張りといっでも、そんなに安普請にはみえない。
 そのほか、建物の主として南西に必らずといってよいほどベランダがつき、それぞれの窓や出入口にはよろい戸、また洋風スタイルながら屋根は日本のカワラ葺き、そしてその屋根の上に突き出た赤レンガ積みの煙突などがあって変化に富んだ形となり、これらが異人館の見どころとなっている。
 異人館は建物だけの魅力ではない。赤レンガの塀から夾竹桃(きょうちくとう)の赤い花が夏の太陽の強い日ざしをあびて顔を出しまた庭に植えられた蘇鉄や、梅雨のころどんよりとした曇り日に真白な花が一層あざやかに印象づけられる泰山木、秋に美しく紅葉するもみじなど、長い年月を経てゆたかな緑の木立ちに囲まれ、塀や庭と一体になった西洋館としての魅力をもっている。

神戸の異人館の特色

 神戸の異人館の特色は、その当時としてかなり質の高い意匠、構造上の水準に達していたことである。
 たとえば、現在も使っている開港場に建った異人館として長崎や函館のものと比較すると、神戸の異人館が整った意匠、構造を示していることがわかる。それは神戸の異人館が日本人の大工さんが洋風の見よう見まねで建てた、いわゆる擬洋風的な建築ではなく、それぞれの意匠が本格的なものに近い味わいをもつものだからである。
 その第一の原因は、開港当初から大正時代にかけて外人建築家が存在し、活動していたことがあげられる。
 開港当初は居留地の建設にちなんで建築物の需要が盛んであり、必然的に外人建築家や土木技術者の来住があって当然だが、神戸の場合はその後も引き続き外人建築家が定住し建築設計活動に従事していたことは神戸のまちのもつ国際性を裏付けるものであろう。
 当時の神戸の都市像の形成に果した外人建築家の役割りは、かなり大きなものであったといえる。

神戸の異国情緒と異人館

 日本の大都市の多くが城下町を背景として近代都市へ発展したのに対し、神戸や横浜はあくまで開港にともなう交易都市として、のびのびと発展してきた。したがって神戸は伝統的な日本文化を背景にもつ古いまちではなく、明治の開港とともに生まれ、日本の近代国家としての成長とともに歩んだ新しいまちなのである。
 また神戸はほぼ百年の昔、すでに西欧的な意識の下に行なわれたまちづくりの経験をもっている。それは外国人のための限られた地域であったが、旧居留地に形成されたまち並みは、今日の神戸の都心となって、近代建築による新しい都市像が形成されている。東遊園地や海岸通りをもったこの旧居留地にみなぎる明るいまちの風ぼうは、かつて築かれた都市計画上の意図が今日においても生かされているからである。
 加えて、生田区の山の手一帯や塩屋周辺に点在する異人館など、神戸のもつ異国的ふんい気はほぼ百年の歴史をもつこととなったがその中からわれわれは学ぶべき多くのことがらのあることを知るべきだろう。(次号へ続く)

  • 写真異人館を見る坂本さん
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山の手の異国情緒

山手に現存する異人館分布図

神戸華僑総会

 車道に沿って高い石垣の敷地に建ち、現在華僑総会が使っているが、明治四十年ごろドイツ染料会社の経営者が建てたといわれる。大きな切妻の屋根をみせて、やはりハンセルの作風によるものである。生田区北野町四丁目。

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