19号表紙

No.19(昭和48年7月)

特集:

友好都市「天津」

おごそかに友好都市提携
神戸・天津

輝やかしい未来に向かって…

 「今日、一九七三年六月二十四日を期して、神戸、天津両市は、友好都市としての提携を厳かに宣言し、輝やかしい未来に向かって、その第一歩をともにふみ出しましょう」  天津市各界代表者(一、九〇〇人)が出席し、熱烈歓迎と友好の拍手が嵐のようにこだまする「人民礼堂」の中で、宮崎市長と解学恭・天津市革命委員会主任が相互にあいさつを終えて固い握手をかわしたとき、日中間ではじめて、神戸・天津友好都市提携が正式に成立しました。神戸市旗と「中日両国人民友好万歳」の文字を刺しゅうした天津の旗が、両市民の友情と協力のシンボルとして交換されました。歓迎神戸市訪津友好代表団」と書かれた垂幕が鮮やかに照らし出されたステージの上で、天津歌舞団や小・中学生が次々にお祝いの歌と踊りを披露してくれました。
 解学恭主任は、「わたくしたちは、都市、港湾の建設に先進的な経験をもつ勤勉で勇敢な神戸市民に学びたい。中日の友好は、すでに何ものもおしとどめることのできない、歴史の巨大な流れである。両国・両市民の友好を強めるために、なすべきことは多い。未来を展望すると、任は重く、道は遠い千里の行程をまず第−歩から着実にはじめよう」と提携の抱負を宣言されました。
 続いて宮崎市長は「周恩来総理、廖承志中日友好協会長、解学恭天津市革命委員会主任ならびに関係者のみなさん方、暖かいご理解と友情に支えられ、日中間ではじめて、神戸、天津友好都市提携が成立したことは、私たちにとって大きな喜びであり、誇りである。今後、私たちは科学、技術、文化、スポーツの交流を通じて両市民の福祉の向上をはかり、海運、貿易の面における相互協力を通じ両市の繁栄に寄与したいと念願している」と力強くあいさつした。
 神戸・天津友好都市提携の希望をはじめて中日友好協会名誉会長郭沫若氏にお伝えしたのは今から二年前です。昨年、青少年水泳友好代表団長として訪中した宮崎市長が周総理と会見して提携の合意に達し、数多くの友好団体、熱心な関係者の協力に支えられて、このたび正式に友好都市提携が実現したのです。

具体的な友好交流計画決まる

 天津では、今後の友好交流計画が話し合われ、「天津市代表団の神戸訪問」、「天津市バレーボールチームの神戸市総合市民体育大会への参加」、「学術研究の相互交換」、「都市行政の資料交換」、「小・中学生の書画の交換」、「はり麻酔の技術交流」、「青年の船の天津寄港」などが決まりました。「神戸出身の中国滞在者の里帰り、尋ね人さがし」について天津市革命委員会は、協力を約束してくれました。将来、日中文化交流協定が成立するのを待って、神戸外大と南開大学との間で語学教授の交換をする話もまとりました。
 両市の代表は、提携交流の打ち合わせで「日中共同声明が完全実施されるまで、都市間交流には一定の限界があります。わたくしたちは、相互主義、有無相通の原則にのっとり、可能な領域で、段階的に一歩一歩、子々孫々にわたる友好交流の輪を広げてゆきましょう」と、今後の方針を確認しあいました。(K・N)
  • 写真友好都市提携宣言会場であいさつする宮崎市長(人民礼堂)

天津の市民生活

 天津市は、人口四三〇万、広さ四七〇〇平方キロ。北京、上海とならぶ中央直轄市です。綿紡績、造船、機械、自動車製造、化学工業などの盛んな近代工業都市であり、天津港は華北平原一帯を後背地とし、中国経済に重要な役割を果す貿易港です。
 天津市滞在中、学校、住宅、工場、港湾などを訪問して日常の市民生活にふれる機会をもつことができましたが、ここで住宅と学校をとりあげて、天津の市民生活の一端を紹介したいと思います。
 河西区尖山街居住区に住み、天津第二紡績工場に勤める平均的な市民Aさんの家庭を訪れ、日々の暮らしについて質問をしてみました。夫妻とも工場に勤め、夫の賃金は月九〇元、奥さんは七八元、子供が三人あって、一人は人民解放軍、一人は見習工で賃金二〇元、一人は学生です。(中国の賃金は三〇元〜五〇元=一元は一三八円)家賃四・五元、電気代一元、水道料○・一元(一人当り)で、部屋は二DK(一部屋一六平方メートル)です。生活必需品の価格は過去二〇年間安定しており(玉ねぎ○・四二、大根〇・一〇、ピーマン〇・九六、豚肉一・九六、牛肉一・八八、卵一・七〇=いずれも一キログラム当り元。上着−○元、皮靴八元)月八〇元で充分生活できるので残りは貯金しているそうです。テレビや電気洗タク機はまだ普及していませんが、自転車(一五〇元)やラジオ(一ニ〇元)は広くゆきわたっています。居住区の中に、小・中学校(七)、幼稚園(三)、病院、保育所が併設され、夜間勤務の労働者(工場は三交代勤務が一般的)のため、託児所は終日開かれています。
 次に私たちは、南開中学を訪れてみました。一九一五〜一九一七年、周総理がここで学び「学生新聞」への寄稿、演劇などの活動を通じて学生だちの注目をひいたことで有名な学校です。生徒数三、四〇〇、教職員数二一〇、文革後修業年限は初級三年、中級二年に短縮されています。学科は政冶、中国語、数学、外国語、歴史、地理、生物、体育、美術、音楽、化学、物理です。「知育、徳育、体育の三つを兼ねそなえ、社会主義的自覚を持ち、教養のある勤労者の養成」、「生産実践と結びついた授業」という教育改革の理念に沿って教育が行なわれており、校内に木工工場や、ボール盤工場が併設されています。
 卒業後は、いったん農村や工場、軍隊に入って実際の労働経験を二〜三年積んだうえで、本人の希望、大衆討議、革命委員会の選抜によって大学に進学できるようになっています。(K・N)

  • 写真広々とした道路に限りなく街路樹が続く(天津市内)
  • 写真天津市内の平均的住宅街の見学(河西区尖山街居住区)
  • 写真水上公園前の花壇
  • 写真河西区尖山街居住区
  • 写真天津市内風景
  • 写真天津市内のメインストリート
  • 写真色あざやかなじゅうたんが作られる(天津市内織物工場)
  • 写真新鮮な野菜がいっぱいの天津市内の市場
  • 写真岩塩の積み出しが盛んな天津港
  • 写真作業の手を休めて訪中団を歓迎(天津港)
  • 写真南開大学視察景
  • 写真河西小学校での体育風景

"天津市と友好都市提携の交渉を終えて"

20年間の"緑化"の成果

 中国とはどんな国か。天津市とはどんな町だろうか―。「遠い隣国」が、今、私たちの目の前に広がろうとしている。
 香港側の最後の駅、羅湖に着いた。国境付近は、ハゲた山々が連なりその谷間に沿って中国の入口がのぞいていた。小さな川に鉄僑がかかっていた。その両側に、ユニオンジャックの旗、向う側に五星紅旗の中国の旗が鮮かにひるがえっている。旗の下に人民解放軍が二人、私たちのパスポートを次々にしらべた。緊張しながら深しん駅に歩いて入った。サマー・タイムの香港時間を一時間遅らせ、入国手続など一時間ほどして、ほどなく広州行の汽車に乗った。
 香港側の汽車にくらべてはるかに立派で、内部の構造もゆったりしており、きめ細い配慮が至るところに設備されていた。冷房した窓越しに、始めて見る中国の風景が次々と入ってくる。「東方紅」のゆったりとした、あたたかい、そして堂々とした歌とメロディーが静かに車内に流れ、やがて車の響きだけになったとき、たった国境から五分ほどしかたっていないのに、香港側とがらっと風景は変った。美事な木々の並び、きちんと手入れされた水田、山々の緑の輝き。広州の対外友好協会の人に聞くと上手な日本語で「解放後二十年。中国の人はみんなで山や野に木を植えました」。「岩山には、土を山に運び穴を堀って植えました」。
 広州から北京、そして天津へと、汽車や車の窓からみる中国の風景は、私たちが想像していた広々とした平野といった感じとはまったく別なものであった。
 まるで森林の中を走っている。公園の中を突っぱしっている感じがした。どの町の中もこれと同じことが感じられた。天津市で滞在しているときも、ふと街路の上を見上げると、緑のトンネルで空が見えないときがあった。「春になると、どの職場の人もみんな交代で植樹に参加します」。
 神戸市でもグリーン作戦が始められているが、二十年間の緑化の成果はどんなものであるか、私たちはまずこの美事な緑化の中に、新しい中国の姿が印象づけられた。

友好的交流に熱烈な歓迎

 北京行の飛行便の都合で広州で一泊したとき、広州市の中国人民対外友好協会の幹部の方々が、私たちの案内を勤めて下さいました。その歓迎会で、陳電広州分会負責人からあいさつがありました。「みなさん方の広州訪問を熱烈に歓迎します。みなさん方は、天津市と友好都市提携の問題で中国に参られました 中日両国の国交回復後、両国の友好的交流は日増しに増加しており、みなさん方は、友好都市提携を通じて両国の友宣をさらに強めるという重大な責任をもって参られました。われわれは、井尻団長を代表とする神戸市友好訪中団が、十分その責任を果されるよう、心からお祈りし、また無事に天津にお送りする責務をわれわれが持ったことを光栄に思います。みなさん方の成功と、日中両国の子々孫々の友好のために、乾杯」
 日中国交回復で有名な茅台酒で、熱烈な乾杯が重ねられました。あくる日、仏山市で受けた熱烈な歓迎と思い合わせ、中国の方々がいかに日中両国の友好的交流を喜んでいるか、また望んでいたかを、参観した工場の一人一人の労働者の歓迎の態度、そしてこのような歓迎会から強く印象付けられた。

"親類"になった天津と神戸市民

 広州地方は雨期で、例年になく雨が多いとのことでした。丁度、北京行きの中国民航機に乗る前、激しいスコールに見舞われた。
 中国の人も「今年は天候が異常だ」といっていましたが、飛行機が立つとき具合い良く天気は晴れ上がって、予定通り北京に着いた。
 南の広州と違って、北京は寒いほど涼しい。空港から北京飯店までの車の中で、天津市革命委員会の外事組の方々が、私たちの来訪を歓迎すると伝えながら、前のシートから体を後にふり向けながら、「神戸市と天津市とは、友好都市になるのだ。神戸はどんな町か。港は大きいのか。人口はいくらだ。産業はどんなものがあるか……」など次々と質問があり、「日本と中国は、友人になった。天津市の人民と神戸市民は、親類になったのだ」と熱っぽく語りかけた。明くる日、孫平化先生の激励の昼食会のあと、北京を発ち夕方、われわれ一行が天津駅に着いたとき、この言葉の意味がはっきりわかった。
 すさまじいばかりの熱烈歓迎の嵐が駅の中、そして、駅前にこだましている。

"一衣帯水"の友好の歴史

 天津市革命委員会の趙武成副主任ほか幹部の一行が、われわれのため「紅旗」三台を用意し、先導車、後続車合わせ六〜七台となって、静かに天津市革命委員会の迎賓館へ向かった。六月四日午後四時半、この瞬間から、実質的に天津市と神戸市との友好交流の歴史の新しいページが開かれた。当日、熱烈な天津市の歓迎会が開かれたが席上、一言、井尻団長のあいさつがあるたびに、熱烈な拍手が上がり、あたかも、はるばる遠くから親戚が訪ねて来たような暖かいふんい気で私たちを包んだ。
 趙副主任から「一衣帯水の両国が、二千年来の悠久の友好の歴史を持ちながら、不幸な一時期があったが、再びあのような不幸な時代を迎えないため、今後われわれの責任は極めて重大なものがあります。この重大な責任を神戸市と一緒になって果したい」と熱のこもったあいさつがあった。

実質的な内容で友好深める

 天津市と友好都市の具体的な問題で会議を一、二、三回と続けた。そのあい間をぬって、天津市の学校、工場、港、百貨店などを参観したが、至るところで天津市の方々の熱烈な歓迎があった。第二回目の会談で具体的な話し合いをする前に、天津市革命委員会解学恭主任と会い、基本的な考え方について意見の交換をしたが、解主任は、「天津市が友好都市の問題について話し合うことは、誠に光栄であると同時に、その責任は重大です。確実に一歩一歩前進しましょう。そして、一歩前進するとき確実に足跡をしっかり残しましょう」と話された。
 形式より実質的な内容を、一歩一歩、両市の友好的交流を築きながら、両国の悠久の友好を固めようということであった。

責任は重く、道は遠い……

 友情を証すものに紙は必要でない。形式より実質を……。中国では、言葉は百年通用するつもりで話す。あなたの子供、そしてその子供さんの子供……が、私の子供、そしてその子供たちが変らぬ友情と交流を続けたい。
 われわれは、その基礎づくりの重大な責任がある。この重大な責任をあなた方と一緒に確実に果したい。この責任は重く、道は遠い。都市提携の話し合いを通じて、天津市の革命委員会の方、そして北京を去るとき廖承志先生も、このように私たちに静かに暖かく語った。天津市を去る日、井尻団長は神戸市の招宴で、「友好都市提携の問題を打ち合わせるわれわれの重大な任務が十分果せるようにと、みなさん方のいたれりつくせりの心くばりに心から感謝します。この天津に来て、新しい友人のみなさん方を知って"友情"とは何か"友好"とは何かを、改めて知ったような気がします。天津市の熱烈な友情を神戸市民に報告し、両市の友好を通じて両国の悠久の平和を固めたい」と結んだ。
 今、中国は、新しく生れ変ろうとしています。解放後、偉大な毛主席の指導のもと、中国は大きな躍進を確実に進めています。自力更生の不屈の精神のもとで、八億の人々が大いに意気込みながら、高い目標をめざして建設にはげんでいます。確かに未だ問題は多くあると中国の方はいいます。そして、問題点を指摘して下さいといい、日本から多くのものを学びたい、毛主席は、「日本民族は偉大な民族である」といわれています―と、中国のどの人々からもいわれた。しかし、逆にわれわれは、中国の人々はみんな「人民に奉仕する」精神で、誇らしげに新しい国づくりに参加しており、学ぶことの多くは、むしろ、現代のわが国の方が多いのではないかと感じた。

咲き実る"友情の花"

 天津の海河の水は、神戸港に通じており、今、両市は、しっかりと友好のきづなを結んだ。両市の変らぬ友情の花が、見事に咲き実ることを心から祈りたい。(M・M)
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