17号表紙

No.17(昭和48年5月)

特集:

神戸いまむかし(下)

神戸いまむかし―西神戸編

詩情ただようまち

写真・絵提供 荒尾親成氏、水谷吉晴氏
  • 写真現在の大丸前
  • 写真住宅街になった現在の宇治野山一帯(左は神戸海洋気象台)
  • 写真現在の諏訪神社前

大倉山の思い出
宮崎辰雄

写真

広場で野球の試合

 由緒ある大倉山の"春畝館"が新しく"大倉山老人いこいの家"になり、この開所式がさる四月二十五日に行なわれたばかりである。春畝(しゅんぽ)は明治の元勲・伊藤博文の号で、私が知らない昔の大倉山は恐らく全体が一つの小山だったのだろうが、子どものころ野球チームをつくってここでよく野球の試合をした当時は、山の片方が切りひらかれて平地の広場になり、一方はこんもりと木の生いしげった山になっていて、その頂上に春畝館と博文の銅像があった。
 ところが、昭和十三年の大水害で近くの宇治川や再度筋ぞいなどの民家多数が流され、家をなくしたこの人たちを収容するため大倉山に仮設住宅がが建てられた。ダレいうことなくこれを"朝日村"と呼んでいたが、のちにこの朝日村が変化して兵舎になったのか、いったんこれを撤去した上で兵舎が建てられたのか、いずれにしろ、水害のあと仮設住宅が建ち、戦争中は高射砲陣地と兵舎ができ、さらには空襲で家を焼かれた人たちのために最近まで市営住宅的なものと、一部に不法住宅もあったが、思えば戦前から戦後の長きにわたり随分とこの立退きに時間をかけたものである。これは昔、大倉山の一部を切り開いたのも市の庁舎と公会堂を建てるのが目的だったし、われわれが大倉山の仮設住宅の立退きを願ったのも、やはり市の中央公会堂をここに建てたかったからだ。

めまぐるしい変遷

 都市公園法によってここに公会堂は建てられないことになったが、最近の人口ドーナツ化現象と、この地区の立退きによって近くの多聞小学校の児童が激減したため湊川小学校と合併、この多聞小の跡地に念願の神戸文化ホール建設を急いでおり、大倉山の変遷をふりかえってひときわ感銘が深い。
 また春畝館は老人いこいの家に、博文の銅像も今は台座だけが公園の南西隅に残されて昔の面影はないが、一貫して大倉山に腰をすえ幾多の変遷ぶりを見つめてきたのは市立図書館ではなかろうか。よくこの図書館に通い、本を読みあさった若いころを思い浮べると、これもまたなつかしい思い出である。
(談・神戸市長)
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