9号表紙

No.9(昭和47年4月)

特集:

源平のあしあと

清盛と神戸と平家物語 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。驕れる者も久しからず、唯だ春の夜の夢の如し…」 太山寺本『平家物語巻第一』(太山寺蔵)

源平一の谷合戦
笹竜胆(源氏) 揚羽蝶(平氏)

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 源平の合戦は、東、生田の森(今、生田神社のあたり一帯、その東を旧生田川が流れていた)から、西、須磨一の谷の付近までを戦場にした。
 とき、寿永三年(一一八四)二月―
 平家は、九州・四国の大軍をひきいて、福原の旧都に還ってきて、生田の森を東門、一の谷を西門としてその守備についた。北の山ぎわより南の海の遠浅まで、大木や大石でバリケードを築き、海には、平家の大きな船が並ぶ。神戸の町のあちこちに、平家の赤旗が春風にひるがえっていた。
 源氏は、後白河法皇より、平家追討の命令をもらい、範頼を大将にして、生田の森を攻めさせ、義経は、土肥、熊谷父子らを従え、丹波路を急進撃して、三草山に置かれた平家の前線を一気に突破して西のかた、一の谷にむかって攻めかかる。
 守る平家、生田の森の大将は平知盛、弟の重衡、息子・知章がいた。
 一の谷の大将は平忠度、山の手方面は、夢野に平教経と兄の平通盛(小宰相の局の夫)、長田の奥、もとの明泉寺付近には強さで有名な平盛俊に守らせた。
 制海権は、完全に平家側にあった。
 戦いは、二月七日(現行の暦に還算すると三月二十日ごろ)の卯の刻(午前六時)を期して、開始された。
 東では―生田川には山なす逆茂木(さかもぎ)、このバリケードに花々しく先陣の名乗りをあげたのは、源氏軍の、河原太郎高直・次郎盛直の兄弟。これがきっかけで、梶原景時、その子景季などの源氏の将兵が突入して乱戦になる。梶原親子の奮闘が「二度の魁(さきがけ)」、景季の「箙(えびら)の梅」の話がゆかしい。
 山手では―強さを誇る盛俊は、猪俣小平六に討たれ、ここも平家はまけいくさ。
 西では―鉄拐、鉢伏の山々が、海岸すぐにそそりたつ自然の要塞。義経軍は、土肥実平が主力をひきい、西まわり、明石の浜から垂水、塩屋を進んで西門を攻める。
 義経は、わずかの乗馬の部下とともに、鷲尾三郎という十八歳の少年に案内されて、「ひよどり越えの坂落し(逆落しとも書く)」という、平家の陣営を背後から一挙に突入する戦法で、一の谷合戦は源氏の快勝に終る。
 「ひよどり越え」については諸説がある。藍那から高尾山の西を通り、ゆるい山坂を進んで明泉寺に出る。もうひとつは、藍那から白川を経て、多井畑、下畑まで南下して、ここから鉄拐、高倉の山の根っこへ登っていく道である。
 かくて、混乱した平家。早く逃げた者は、海に浮ぶ平家の軍船にたどりついた。しかし、平家一門の主だった者が十人も、この神戸の町で戦死した。十六歳の美少年敦盛は関東の老武者能谷直実に呼びもどされ、須磨の浦でなくなる。平家は、宗盛が安徳天皇をおつれして海から四国の屋島へと逃げた。

  • 写真往時をしのばせる生田の森
    (生田区下山手通、生田神社境内)
  • 写真清盛や重盛が何度も足を運んだ布引の滝
    (葺合区布引町)
  • 写真国鉄新幹線新神戸駅から望む旧生田川
    (現市役所前南北線)東側一帯
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    北野天神

    祭神は菅原道真。治承4年(1180)清盛が福原内裏の鬼門の鎮護として、平邦綱に命じて社殿を造営した
    (生田区北野町2、市バス中山手通1北500メートル)
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    河原霊社

    生田の森の戦で悲壮な最後をとげた河原兄弟を祭っている
    (生田区三宮町2、三宮神社内市バス三宮神社前)
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    魁(さきがけ)石

    梶原親子の奮倒を物語る石碑
    (生田区下山手通4、栄光教会前。市バス下山手通4県庁前西)
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    雪の御所

    清盛の別邸のあったところ。ここで晩年の十四年間を暮らした。兵庫区雪御所町湊山小学校校庭、市バス平野下車西二百メートル
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    清盛塚

    清盛の没後 約百年の弘安九年、清盛の霊を弔うため北条貞時が建立したといわれている。十三重の優秀な石塔で高さ八・五メートル。その隣に、琵琶塚と清盛の銅像がある。兵庫区南逆瀬川町二丁目、市バス松原通四

「神戸っ子」清盛

 平家の名前には、「盛」がつくのが多くてまぎらわしい。これは源氏に、「義」「頼」が多いのとともに、きわめて興味深い。義・頼には、武士の忠義・信義や信頼といった心がこもったものであろう。盛には、あきらかに、一家一門の興隆・隆盛・繁栄といったものを念じこめたものと考えられる。
 祖父、正盛のとき急に芽が出て、伊勢平氏が京都の人々に知られる。父は忠盛、播磨・但馬など大国の国守をしたが、得長寿院(三十三間堂)を建立して鳥羽上皇に献納した功で、地方官から政府の役人に昇進している。
 清盛は忠盛の長男である。安芸守のころ、中国貿易(当時は宋)というものの味(あじ)を知り、海上交通の神、厳島神社の修築をして、平家の富の増大を祈っている。保元の乱で、彼の運命が大きく上昇し始める。この乱は、京都の公家が軽視され、武士団の興隆の始まるポイントとなるが、これで一番トクをしたのが、ほかならぬ清盛。この翌々年、太宰大弐(だざいだいに)となった。太宰府は対宋貿易をとりしまる役所。その次官になったわけだが、実権を握ったことになる。いや利益をひとり占めにしたといったほうが当たる。それから平治の乱。戦いは、清盛の大勝利に終る。源氏はこれでほとんど滅び、世は平家全盛への歩みを始める。
 その後、あっというまに、武家としては最初の太政大臣となった。五十歳、まもなく出家をして浄海と称す。このころ、神戸の福原に別邸を構えたようだ。それから死ぬまで十数年間、神戸との関係がつづく。背山の緑が美しく、南は広がって遠浅になり、白帆の浮ぶ瀬戸の内海。その海が、貿易の門戸でもある。別邸は、緑の山に近く(今の雪の御所のあたり)、温泉もそのころから出ていたようだ。温暖な気候、新鮮な魚、豊富な野菜、どれもこれも、魅力にみちている。
 経が島の構築を始めて、ミナト神戸発展のもとがここに開ける。今のポートアイランドなど、彼の構想の延長ともみられる。そして、治承四年(一一八〇)の福原遷都。安徳天皇は三種神器とともに、高倉上皇・後白河法皇もご一緒に、この神戸においでになった。六か月であるが歴史上の大事件である。いくさ上手だけの源氏にくらべ清盛は大政治家である。
 清盛は翌年、熱病で京都で死んだ。遺言によって、遺骨は神戸に運ばれた。今、清盛塚という十三重の石塔が、昼も夜も、神戸の空に高くそびえている。

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    松王丸の石塔

    清盛が経が島築造の際、潮流が激しいため非常な難工事になった。占い師のことばによって海神のたたりをおさめるため、讃岐香川の領主大井民部の子で十七歳の松王丸が人柱になることを申し出て海底に沈められた。島の完成後、けなげな松王丸の菩堤をとむらうために建てたのが築島寺といわれる
    (兵庫区島上町、市バス築島北100b)
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    熊野神社

    清盛が福原遷都のとき、帝都守護のため紀州熊野の神を勧請して祭ったと伝えている
    (兵庫区熊野町2、市バス夢野町2北)
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    大輪田の泊

    奈良朝の昔にできていた泊りを清盛が大修築し、対中国貿易の拠点とした。これが今日の大神戸港に発展するもとになった
    (兵庫区中之島一帯、いまの兵庫港)
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    七宮神社

    経が島築造の際、難工事が続き困った清盛が大井民部重能の建言で、社殿を奉遷して祭事を行なった
    (兵庫区北宮内町、市バス鍛治屋町北100メートル)
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    荒田八幡

    清盛の弟頼盛の山荘のあった所で、治承4年6月福原遷都のとき、安徳天皇の行在所になった。境内に行在所跡の標石がある(兵庫区荒田町3、市バス荒田町3西100メートル)
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    平通盛(右)と小宰相局塔(左)

    一の谷合戦のとき湊川で戦北した清盛の弟教盛の子通盛と、その夫人小宰相の局の墓
    (願成寺内)
  • 写真小宰相の局が信仰していた地蔵菩薩(願成寺本堂内)
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    願成寺

    法然上人の弟子住蓮坊が中興した浄土宗の寺
    (兵庫区松本通2、市バス湊川公園西口北200b)

美人の身投げ―小宰相

 「生きていて、とにかくに人を恋しと思わんより、水の底にも入らばや」と、夫・平通盛が湊川で討ち死にしてから初七日に、屋島へ逃げる船から身を投げた小宰相の局(こざいしようのつぼね)。『平家物語』に見る多くの女性の中で、女の入水は、あとで壇の浦で安徳天皇を抱いてお供をした二位の尼(清盛の妻)をのぞいては、ただひとり―。宮中一の美人で、三年もの間、恋文を送りつづけたという通盛。それだけに、夫の戦死はショックが大きく、乳母がちょっと油断をしたすきに、「まどろめば夢に見え、さむれば面影に立つ」夫を募って、おぼろにかすむ春の海に消えていった。
 願成寺はもと、今は水源地になっている烏原村にあった。当時の住職、住蓮(じゅうれん)が乳母の兄と伝える縁によるのか、通盛・小宰相付妻の塔が、住蓮や乳母とともに並ぶ。そして、本堂には小宰相がおがんでいたといわれる地蔵さん(木造り)が、今も多くの人にしたしまれている。

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    平知章墓

    知盛の子知章の墓
    (長田区明泉寺町一、大日寺内、市バス明泉寺橋北)
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    平知章之碑

    大日寺に墓のある知章の顕彰碑。ここには通盛碑のほか木村源吾、猪俣小平六の墓があり、源平勇士の碑としても知られる
    (長田区五番町8、村野工高西、市バス長田区役所前東)
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    平盛俊塚

    源氏の猪俣小平六に討たれた平家の豪勇な侍大将盛俊の塚
    (長田区明泉寺橋東、市バス名倉町西50b)
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    蓮の池と駒が林

    「平家物語」に平重衡が生田の森の合戦にやぶれ、馬を駆けて湊川や苅藻川を渡り、蓮の池を右手に、駒が林を左手にして西に向ったとある(写真長田区市民グラウンド一帯、市バス市民グラウンド前)。駒が林は一の谷合戦のとき、平家の軍船が和田岬からこの沖に集結した
    (写真長田区駒が林町一帯、市バス大橋5南500b)
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    幡(ばん)(勝福寺蔵)

    築島供養に使った幡、十ニ流のうち二流
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    松王丸の手紙(勝福寺蔵)

    兵庫築島奉行大井民部重能の子松王丸の手紙
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    伝・源頼朝献納の飾り太刀(長田神社蔵)

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    密教法具(国指定重要文化財 勝福寺蔵)

    花瓶(けびょう)、火舎(かしゃ)、六器(ろっき)
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    勝福寺

    (須磨区大手町、市バス板宿西北500b)
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    源平合戦図屏風(尼崎市武庫之荘、薮本公三氏所蔵)

  • 伝・平知章の甲胄(勝福寺蔵)

  • 平忠度の腕塚

    一の谷西門の大将、平忠度の腕を埋めたと伝えられる腕塚堂
    (長田区駒ヶ林4、市バス大橋9南300b)
  • 腕塚堂の外観

    「腕塚さん」の名で呼ばれ、お参りに訪ずれる人が多い

親の身がわり―知章

 生田の森の大将軍知盛は、平家全軍の撤退を見とどけた上で、子の知章、家来の監物太郎頼方の三騎となり落ちていくところを、源氏の児玉党の武士たちに追いかけられた。知章は父を討たせまいとして、敵の中に入り、おそいかかって戦うところを、敵の部下に斬られた。監物大郎は大急ぎでその敵を討ち、ありったけの矢を射ているうちに戦死する。このまぎれに、知盛は逃げのびた。
 乗っていた名馬に海を泳がせ、沖の船にたどりつく。しかし船には、この馬を乗せる余地がなく、またなぎさの方に追い帰した。そのとき、馬が敵のものになるからすぐに殺そうという意見にも、自分の命を助けたのだから、まかりならぬといってしりぞけた。生きものを大事にした話。
 船の上で、兄宗盛にむかい、知盛は、親を討たせまいとして敵に組みついているわが子を見殺しにした。こんな悪いオヤはどこにもいないだろうといって、涙を流す。
 十六歳の若武者・知章の悲しい死。通盛と小宰相との話を夫婦愛というなら、これは父子愛とでもいおうか。
 神戸の戦場で、父おもいの子のため、危うく助かった知盛。都落ちしてから、屋島・壇浦の平家滅亡まで、知盛はその名にふさわしい英知と、すぐれた指揮で、平家一門のささえとなった。

  • 平忠度の胴塚

    (長田区野田町、市バス大橋9南)
  • 平清盛の位牌(右)松王丸の位牌(左)

    (長田区東尻池町2、宝満寺蔵、市バス東尻池2西北150b)

一門の花―平忠度

 平忠度は、清盛の末の弟。文武にひいでたまさに平家「一門の花」。名のタダノリ、そしてその官名薩摩守(さつまのかみ)までが、無賃乗車の意味にとられて、ご本人にはメイワクシゴク。
 平家の西方面、一の谷の大将軍忠度の最後は駒が林のあたり。敵と組んで首を斬ろうとしたところを、とんできた敵の家来に右の腕を、肩のつけ根から斬りおとされた。危うく助かった敵が忠度の首を討つと、その箙(えびら・矢を入れる器)に、「旅宿花」(りょしゅくのはな)の題で歌一首。

  行きくれて木の下かげを宿とせば
  花やこよいのあるじならまし

 都落ちの直前、あわただしいなかを歌人藤原俊成を訪ね、勅撰集に自詠首の入集を頼んだ。立去る時、馬上で漢詩「前途程遠し……」を吟じて「再会を期し難い」の意を言外に残したその余裕。
 武芸にも歌道にもすぐれたよい大将軍であった人をと、敵も味方もその死を惜しんだといわれている。
 忠度は、駒が林の沖にいた平家の船に乗る直前に討たれたものだろう。今、胴塚(野田町)、腕塚(駒が林)に祭られて信仰をあつめている。
 なお、「千載集」(勅撰集、第七番目、藤原俊成撰)に「故郷の花」という題で、読み人知らず、として採られている一首は忠度の作である

  さざ波や志賀の都はあれにしを
  昔ながらの山桜かな

生けどりと駆けひき

 一の谷の戦いは、平家の大敗に終った。一門の多くの者が、神戸市内のあちこちで戦死をした。そして、生田の森の副将軍、平重衡は、須磨寺の近くで生けどりになった。
 「なぎさに助け船ども多かりけれども、後より敵は追いかけたり。乗るべきひまもなかりければ、湊川・苅藻川をうち渡り、蓮の池を右手に見て、駒の林を弓手(ゆんで、左)になし、板宿・須磨をもうちすぎて、西をさしてぞ落ちたまう」と。
 蓮池は今、市民グランドになっているあたり、駒が林、板宿、須磨と逃げていく平家の将軍。
 清盛の子の中でも、兄の宗盛・知盛、妹の徳子(安徳天皇の生母、のちの建礼門院)と同じ母をもつ重衡の生けどりは、一の谷の合戦での大事件である。屋島にいる宗盛らとの間に、京都から、後白河法皇より、皇位のしるしである三種の神器を返したら、重衡を助けようという条件が出された。この交渉は、もちろん、不調に終わる。

青葉の笛 (原題「敦盛と忠度)
大和田建樹 作詞 田村虎蔵 作曲

一の谷のいくさ破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
ふくる夜半(よわ)に 門(かど)をたたき
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や 今宵(こよい)」の歌

敦盛塚に詣でては
正岡子規

石塔に 漏るる日影や 夏木立

須磨一の谷
神戸市内 平家物語のあしあと

蝉の羽や
なすともつきぬ
石の塔

山田 博宥
『福原びんかがみ』(大倉山図書館蔵)

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